◎ 「神に会おうと思えば」を「幸せになろうと思えば」。「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って眼にも見よ。」のお知らせ。。。
昭和四十四年六月七日 朝の御理解
X御理解第十二節「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
「神に会おうと思えば。」と、神様に会えば、幸せだと。まあこの御理解の十二節から、観念的な神様を分からせるためには、やはりこのようなふうに表現をなさらなければならなかったのでしょうねえ。「神様は大体、どなたですか。」ほんなら神様は「外へ出てみなさい。空が神だ。下が神だ。」というふうに教えて下さってあるんだとこう思うんですけれども。その観念的な神様ではなくて、私共の実際、幸福につながる神様。幸せにつながる神様。実感的に神様に会うということは、よく「神、吾れと共にあり。」と申しますね、神われと共にあり、神様といつも一緒にあると、こういう訳なんです。本当に神様と一緒にあるということがいつも実感でけたら、幸福はそこにあるということがいえます。
神様にいつも守られておるんだと思うところに、どんな場合でも安心のいかないはずはありません。もちろん、その神様は人間の幸せの鍵を握っておられると分からして頂くところから、やっぱり、頂かにゃいけんでしょうねえ。だから、お互い信心させて頂いているんですから。神様が私共の幸福の鍵を握ってごさる。そこで幸福になりたい。その神様を知りたい。その神様を頂きたいと。その神様は、もう、「庭の口を外へ出て見よ。空が神。下が神。」というふうに、まあ金光教でいう神様の、いうならお姿を天地にかたどって拝んでおるわけですが。
ここのところをだから、私共は幸福になりたいという願いの元に、信心を求め、神様を分からして頂こうとするのですから、この「神に会おうと思えば」というところを、やはり「幸せに会おうと思えば」と、幸福に会おうと思えば、というふうに頂いてまいりますと、ここが非常に実感的になってまいりますね。
「庭の口を外へ出てみよ。」と、いうところをですねえ、自分の考えの外へ出てみよと。例えば申しましょうか。いうならば、我情我欲の外へ出てみよ、ということですねえ。そこにはね、天が神、下が神と、天地をはっきり分からして、この天地がそのまま神様だというふうに分かるようにです。そこには我が身は神徳の中に生かされてあるんだなということが分かる。だから「庭の口を外へ出てみよ。」とそこんところを、今までの私から脱皮するというようなことを申します。抜け替わってしまう訳なんです。
私は今日の十二節を、いうなら、この御理解の意味の外にあるようなことを申しておりますけれども、私も実は分からんのですけれども、今日私は頂きますことが、「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って眼にも見よ。」、これは昔の侍たちが戦場にのぞんだ時に、大音声に呼ばわって、いわば、その口上なんですよね。どのような意味かよう分からん。そして、頂きますことがこの十二節ですから、十二節とどのようなつながりがあるか分かりませんけれども、「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って眼にも見よ」と、どういうふうにここのところを頂いたらいいのだろうかと思うのです。昨日、久留米地区の教会長夫人の集いというのが、日田の温泉センターでありました。ここからも豊美と家内がまいりました。ちょうど、四時の御祈念を終っとりましたら、昨日帰ってきました。私はね、どういうもんか、その家内が外へ出ると、どうも心がいらいらする。もう不思議なんです。もう家内がね、別に顔つきあわせる訳じゃないけれども、裏でこそこそ何かやってくれておると思うたら、心が安らいでくる。もうあの人が外へ出て行ったと思うたら、どうも心が落ち着かない。別にその私共がべた惚れし合っとるという訳じゃないでしょうけれども、とにかく家内が私の半身になりきっておるからだと思いましたね。夫婦は一心同体といわれるが、その一心同体であるおかげを私共は頂いておるから、半分がどこさんか行くから痛かったり、寂しかったりするのだと・・・。 それで、そのどうも落ち着かない。表面に出る程でもないけれども何とは無しに、やっぱあるんですよね。私はもう昔からそげんあるんですよ。それかというて、自分が出て行くときはどうもなか、・・・(笑)。家内が出て行くのが、どうもやっぱいかん。
それで帰って参りましてから、向こうでの様子を二人でいろいろ話しておりました。中で向こうでくじ引きがありました。もう合楽の奥さんのが一番じゃったという訳なんです。真珠の指輪をもろうてきとった。真珠の玉が二つある。善道寺の奥さんは火の車じゃったげな・・・(笑)。それをいろいろおもしろう、おかしゅう話しておりましたが、それをどげんとか、というて見せてもろうて思うことですねえ。今日例えば、私は寂しかったけれども、いらいらするようなものも感じましたけれども、間違いのないことであったということですよ。今日、日田におかげ頂いとったということは、間違いのないことであったということ。二つの玉がついておる。それを一つの輪を以て結んである訳です。ですから本当言うたらですね、たとえ遠くに離れておっても、私とあなたの心というのは、いつも通うておる。寂しさがあってはならないところに、私共夫婦のもう一段、深められた夫婦愛というのが生まれてこなければいけない。別れておっては寂しいという位じゃ、まあだ、ほんなものではないということを感じさせて頂くのです。その指輪の中から・・・。
私共と神様の場合でも同じ、私共と神様の場合はどういうことかというと、例えば、そんならここにお金が無い。お金は誰でも大好きですから大事に致します。ところがその大事なお金が段々減ってなくなっていく。いわば遠くへ行ってしまう訳ですよね。お金が・・・。それをね、どういうことになりましょうかね。お金が無くなると寂しゅうなるだけではなくて、もういらいらしてくる。あそこはまた、派手に夫婦喧嘩しござるが、金が無くなったんじゃろう。というように近所の者が噂するごと。もう金のあるときだけは、あそこは夫婦仲良いけれどもね。金が無うなると、もういつも夫婦喧嘩しござるというような所があるんです。無い家の喧嘩。
ですから、それは金が無くなるから、寂しうなり、いらいらする訳ですねえ。けれどもね、そこんところが例えば、あるときも有り難いなら、無くなって出すときも有り難い、ということになってこなければです、幸せに会うておるとはいえないと思うのですよ。そこで例えば、私と家内じゃないですけれども、本当にたったあの人が四、五時間だけでもおらないだけでも寂しい、だけではいかんのですけれども、その寂しい間に、いよいよ夫婦というものは、もっともっと仲良うしていかなければいけないものなのだ。お互いにもっともっと大事にし合うていかなければならないものだ。その別れておる五、六時間の間に、そのようなことが分からして頂いたと。帰ってきたから、また、今までとは、一段違うた仲良うならせて頂いたということ。
お金がとうにいってしまった。本当にお金の有り難さがしみじみ分からして頂いた。これからは、そのお金が帰ってきても、もう、ろくそにどんするこつじゃないぞ。と、いよいよ大事にさして頂くぞ。と、無いことがこんなにも寂しい。いらいらするのだということをです、分からして頂いたということなってくるときに、私はそこが生きてくると思う。
私は調和というようなことは、そういうことだと思うのです。いくら夫婦が調和しとるからというて、ふたりちゃんと、こう向きおうている訳にはいかんのである。夫婦が拝み合うとるからというて、いつも拝み合うとる訳にはいかんのである。場合によっては、半年もいや一年も別れて暮らさなければならんことがあるかもしれんのである。それでも心と心では通うておる。心と心ではいつも拝み合うとるというような、私は、おかげを頂いた時に、本当の夫婦の調和のとれておる夫婦だといえることが出来ると、私は思うのです。
どのように例えば、天地の摂理とでも申しましょうか。大調和の中にあるといわれております。一分一厘の間違いの無い大調和の中に、私共がありましてもです、私共がそういう意味に於いての調和がとれていかなかったら、その大調和に合う事が出来んのです。それを私のいつもの言葉を以てするとです。どんなに天地の親神様が氏子かわいいという、一念を以ておかげを下さろうとしておっても、こちらがその心が分からず、その心に反する思い方、在り方であってはです。その神様の下さろうとしてある、氏子信心しておかげを受けてくれよ。というおかげをよう受けられない。ということになるのです。
この世の中というのは、そういう神様の大調和の中にあるということはです。まあ、いろんな実例から、それを知ることが出来ますよね。例えば、海の水が一分一厘多うなったら富士山の頂上まで、海水に覆われてしまう。といわれる位ですから、もう大変な調和を以て、いわば海と陸とのけじめとでもいうか、神様の働きというのがあっておるのです。そういう意味を今日、私は大調和と申しております。ですから、そういう一分一厘の間違いのない働きを以て、神様が不幸にしてやろうじゃない、幸せにしてやろう、幸せにしてやろうとなさる働きがです、あっておることを気付くところから、信心が本格的になってきますね。本当なものになってくるです。いわゆる皆さんがここでいわれる本当に信心しなきゃ馬鹿らしか。信心にならなければ馬鹿らしい。
本当に私共が何事にも信心になれよ、とおっしゃる。いわゆる、信心にならなければ馬鹿らしいんだと。長年信心さして頂いておっても、教えも頂こうとしない。教えを守ろうともしない。こんな馬鹿らしいことはない。ということが分かるところから、本当の信心が出来てくる。本当のおかげが頂けてくる。いわゆる、一分一厘の間違いのないおかげが頂けてくるようになる。それには私共がです。いわば調和のとれた人間関係の上にも、金銭関係の上にも、又は、健康の上にも、いわゆる調和のとれたということは、本当に拝み合うてゆけれること。自分の都合の良いのだけは拝むけれども、都合悪いものは拝まないということは、これは本当なことじゃないことが分かる。
おかげを受けたということが有り難いなら、やはりめぐりのために難儀をしておる。苦労をしておる。その難儀も苦労もまた、有り難いと合掌して受けていけれる信心。自分の思うようになったことだけが有り難いのじゃない。思うようにならんこともまた、おかげである。降ることだけがおかげじゃない。照ることだけがおかげじゃない。降る事も照る事もすべてがおかげであると分からしてもらう。そこんところが分かるためにです。「庭の口を外へ出てみよ。」とおっしゃるように、神様と会う為にはです、私共が自分というものの中から一遍、脱皮して自分という我情我欲の中から、一遍はずれてみて初めて「神は我が本体の親である。」ことも分かれば、神徳の中に生かされておる自分であるということもわかってくるのです。そこに幸福があるのです。
具体的な例がひとつあります。昨日一昨日でした。久留米の井上さんが麦刈りが終わったからとお礼に出て参りました。今度、あそこで家の改造をされました。それに百万の予定であったのが、百五十万位かかったのでしょう。それでまあ、全部大工さんに支払らせて頂く為に、御主人と相談して、まず百万円支払っといて、後の五十万円はいついつ支払うということになっておった。そこで、いついつ支払うと約束しとったものですから、御主人にお金を持って来てもらうことになっておった。ところが、主人が二十万円しか持ってきとんなさらじゃった。そして、あと1万何千円か半端が出来るそうですが、それで、もう百何十万のこつじゃから、一万何千円位まけてやらっしゃるくさい。というのが御主人の考えだったらしいのです。これは、私共でもそう思いますねえ。私自身、その井上さんの話を聞かして頂きよってから、もう本当に恥ずかしい思いをしましたけれどもね。根が商売人ですから、ソロバンばっかり持とうとする。もう、いくらいくらがたしてやっておるから、いくらいくらがたはまけてもよか。というのが普通の者の考えであり、私共もやはりそう考える。ところが、井上さんとしては、これだけ立派にしてもろうたんじゃから、ほんなこていくらか、かててやりたいというのが井上さんの考えじゃった訳です。だから、かててはやられんでも、せめて値切らんで向こうから請求書のきとるだけは、しかも日にちにはきちっと支払うてやりたいという思いであったけれども、まあ、それを言うたんでは御主人の心を傷付ける。
それで、そげなこつを私は反対思うとるこて。とはいわれんのです。それでそれから、一生懸命祈られた訳です。お願いをして向こうにも不都合の起こらないようと一生懸命願われた。それがお父さんにはよう分かるらしいのですよね。これが早う持っていこうごたる。早う払いたいと思うとる。そして、こぎらんで払あうごたると思いよるということは、いわば、分かってるわけなんです。日ごろの井上さんの行き方からして、そこでお父さんにとしては、引きなぶってある訳です。
そのことをですね、言わずに黙って祈っていかれた。いわゆる、自分のこの美しい思いをです、いわゆる何事にも信心になろうと一生懸命。そしてから言われることですよね、そうせにゃ実を言うと馬鹿らしかというのです。信心にならなければ・・・。
せっかくこれだけの立派なものを作って頂いておって、値切ったりこぎったり、また、そのために夫婦が争うようなことであっては、馬鹿らしかて。そりゃあ、もう一日でも早う払いたいごとあるけれども、そういって主人の心を気付けたら馬鹿らしいから、神様にお願いをして本当なことをさせて下さい、と言うて願わして頂いておりましたら、とうとう主人がもう根負けしたごたるふうにして、お前にはもうかなわんというて、一週間目にあとの金を全部とって、もう俺が支払いに行って来るというてから支払いに行って下さったというて、お礼にみえた。たったそれだけのことですけれども、もう本当に信心生活とはこういうものだと。ほんとにそこに調和してないなら、調和することのために、そこに信心のある者が、一生懸命にそこんところを努めておられる訳です。 そこに、もう、うちの家内にだけは頭は上がらん。うちの家内が言うことは間違いない。うちの家内はもう本当に神様ごたる人と主人が思うてくるごとなるわけです。だから本当に拝むごとなってくる。そういう繰り返しの生活というものがです、私は本当の信心生活を確固たるものにしていくと思うのですよ。
段々、十二節からこのような御理解を頂こうとは、夢、思わなかったような御理解になったけれどもです。私はここのところを、「神に会おうと思えば」、というところを「幸せに会おうと思えば」、ということです。井上さんの今のお話の中からでも、幸せとはこれだと、言うて聞かせることもいらなければ、してみせることもいらない。本当の美しい心で祈り、願わせて頂くところから、そこに一週間という、それはあったに致しましても、大工さんにも喜んでもらい、主人の心も傷付けない、自分も有り難い。といったようなおかげが頂けてくる訳なんです。そこには自分の我情、自分の思いというものを捨てなければならん。私はこげん思うとりますよと、押し付けとらん。自分という者の中から脱皮しておる。そして、じーっと神様はどのように働いて下さるだろうかと、眺めておる。そして、一週間目に、そこに神と会うておる。神様の働きというものは、このようなもんだと分からして頂いた。
自分を一歩、そとへ出てみて、初めてそこに分からして頂いたのが、空が神、下が神。あれもこれもすべてがおかげ。御主人が反対のことをいうておるのもおかげである。ということが分かるでしょうが。自分が分かること。主人が分かって下さること。そのときに井上さんが、いくらいくら要りますけんで、ととっいて来て下さい。というて、おいと、いうて取って来て下さったら、ただ井上さんがそれを払いに行かれたばっかりであったら、それだけのことであった。けれども、そこに一週間という、それが有り難かったおかげでです。いろいろ分からして頂いておられる。そこにみんなが助かっておるおかげを受けておられる。大音上に呼ばわっておる。「遠からん者は音にも聞け。近くば寄って眼にも見よ。」ということと、直接関係はないようでしたけれどもです。私はそのお話させて頂きながら、段々、密接になってきたような気がするのです。はっきり言葉には言い表せませんけれども。皆さんもね、そこんところをひとつ、皆さんの心でひとつにしていく。
天地というものがどこから境で、天か地かというてもです、分かりませんけれども。地平線なら地平線というものを眺めると、空と大地とが、一つになっておるところがある。今日の私のお話はですね、そういうはっきり分かることのために地平線のところを、ここが神様だ。ここが大地だと。どこが境か分からないなりにお話をしたような気が致します。そして、そこの中にある私共もまたです、その天地の大調和の中にです、調和を保たせて頂く。いわゆる和賀心を保たせて頂く。どのような場合でも何事にも信心にならして頂くということによって、なるほど、生かされて生きておるんだなあという喜び。神様のおかげを頂かねば、ちょっと間違えばこのように間違うてくる。そこで間違いのない在り方。間違いのない生き方を探らせて頂く為に、本当に人間、信心が必要である。ということが分かってくる。ただおかげ、御利益の為に信心しておるという間は出来ない。自分がいよいよ脱皮して我情我欲の外に出らなければ、そういうおかげには触れていかれないと思うですね。 どうぞ